彼はイタリアの裕福なユダヤ人家系の出身ですがイギリスで生まれ、家族全員でユダヤ教会に通っていました。ところがある時父がそのユダヤ教会と対立し、イングランド教会に行くようになります。それは大変珍しいことで、ディズラエリは12歳の時にキリスト教の洗礼を受けます。
12歳の子供にとって、この出来事に相当な戸惑いを感じたに違いありません。そしてその後の彼の一生を大きく変えました。作家としても有名だったディズラエリですが、法律家を目指したこともありました。そして結局は政治界に入ります。19世紀はイギリスでもユダヤ人差別があって、中ごろまではユダヤ人は議会で席を持つことさえ許されていなかったのです。人々のユダヤ人に対する反感も強く選挙では5回落選した後、ついに庶民院での席を獲得し、最後には首相にまで上り詰めました。
ヴィクトリア女王は最初はディズラエリには全く興味を示さず、初対面の印象については「変わったファッションの男」としか記録されていません。ところが、政治家としての手腕もさることながら話術にもたけていましたので、特に女性のファンが多かったようです。「もし女性に参政権があったら、もっと早く当選していただろう。」とある評論家が言っているくらいです。
その後、ヴィクトリア女王からの寵愛を受けるようになります。ディズラエリが住んだ家ヒューエンデン・マナーは現在はナショナルトラストが管理していて、私も過去2,3度行きました。
ディズラエリの最後が近づいたとき、ヴィクトリア女王に知らせるかどうかを聞かれたとき、彼は「いや、女王陛下は単にアルバート公へのメッセージを私に依頼されるだけだから。」(アルバート公はヴィクトリア女王最愛の夫で若くして亡くなった。)と言ったことは有名です。
ディズラエリのお葬式にはヴィクトリア女王はプリムローズのリースを送りました。(イギリスの君主は例外を除いてはお葬式には列席しないことになっています。)プリムローズは生前ディズラエリが最も好んだ花で、女王がウィンザー城やオズボーンハウスに滞在しているときに敷地内で摘んだプリムローズは時々ディズラエリに届けられていました。
ディズラエリの命日である4月19日はプリムローズデイとして知られています。
ヒューエンデン・マナーの敷地内にある教会のお墓には、妻ともうひとりの女性の名があって不思議に思っていましたが最近、その答えが解りました。友人であったセラ・ブリッジズ・ウィリアムズは夫を亡くした後ディズラエリと親しくなり、亡くなったあとは財産をディズラエリに残します。その条件が、ディズラエリ夫妻の近くに葬られることでした。こうしてほとんど生涯借金を抱えていたデイズラエリは晩年になってやっと借金から解放されました。