8/30/2018

Nachiko Sagawaさん

数日前のタイムズ紙に日本人のサガワナチコさんの記事が載っていました。日本では死亡広告というのでしょうか、このページはThe celebration of the life of a loved oneというような内容のページ、つまり「個人の生涯を追憶して祝う」という意味です。

サガワナチコさんは、1930年東京で19代にわたって医者を営み、叔父は現天皇の小児科主治医をしていた家系に育ちました。父親の好きだったバッハを小さい時から聴き、彼女自身もソプラノシンガーとして音楽もたしなみ、英語はカソリックの学校に通っている間にマスターしたとか。

そんな彼女が、BOAC(British Overseas Airways Corporation ブリティッシュ・エアウェイズの前身)が6人の東洋のスチュワーデ スを募集した際に、そのひとりに選ばれたのも自然なことでしょう。




ナチコさんが将来の夫となるビル・ブラウンと結婚したのは1959年のこと。 それはBOACのスキーチームに入会し、当時東京にあったチャータード銀行(ロンドンを本拠に持つ)に勤めていたブラウン氏とスキー場での出会いから始まります。

当時のチャータード銀行の規則は海外に赴任するスタッフは4年の任期が終わるまで結婚してはいけないことになっていたために、ブラウンは辞表を出す準備をしながら婚約します。こうしてナチコさんはチャーター銀行初の日本の花嫁になったのですが、イギリスにわたってすぐにチャーター銀行の取締役会にかけられるます。品定めというところでしょう。規則であっても「一応話だけでも聞いてみようか」という銀行の姿勢にも驚きます。あの時代のことですから、通常なら「規則は規則」でブラウンも銀行にはいられなかったでしょうに。ここに「規則は例外を認めることもあるという条件で成り立つ」というイギリス人によく見られる態度が感じられますね。




彼女のチャーミングな人柄と流ちょうな英語が臨席した人たちにすっかり気に入られ、ブラウンは解雇されるどころか退職時はチャータード銀行の副頭取にまで上りつめています。夫妻は、結婚後は日本に住んだことはなかったようですが、ブラウン氏の仕事でタイ、シンガポール、香港で暮らしました。幼い時から海外に興味を持っていたナチコさんもこうして次第に国際人となっていきます。

社交面でも徹底的していて、おもてなしの際には100人のゲストの名前、年齢だけではなく興味、食事の好み、 子供の数、それぞれのゲストの好きな花など詳しく調べ記録したということです。4歳の娘が汽車に乗ったことがないと言ったので、彼女はなんと子供たちをオリエント急行に乗せるためにパリまで行き、モスクワでシベリア鉄道に乗り換えます。その間、彼女は子供たちに算数、フランス語などを寝台車で教えていました。

インターネットを調べてもサガワナチコという人物に関しては全くたどりつきません。でも世に知れていない人の中にはすごい人が沢山いますね。そういう人たちの生涯もまた興味深く多くの人に影響を与えています。

ナチコさんは私の両親と同時代の人です。私の母にもアメリカに嫁いだ友人がいました。お里帰りの際には母に会いにきてくださって、私は彼女からのアメリカ生活の話を聞きながら海の向こうには全く違う世界があること、でもそういう国も同じ地球の上にあることを幼い時から感じ、興味を持っていました。この母の友人も、そしてナチコさんも今でこそ簡単に行き来できるアメリカとイギリスですが、当時は相当な覚悟で嫁いでいったのでしょう。今では国際結婚は特別なことでもなく、ロンドンに行けば日本人と日本人以外のカップルが家族連れで歩いている光景をしょっちゅう目にします。タイムズのナチコさんの記事を読みながら、当時と比べ世界の国々の距離間がますます縮まっていっていることを感じます。