チャッツワース.ハウスのデヴォンシャー公爵に嫁いだダイアナ元皇太子妃の先祖ジョージアナ(
紅茶で有名になったグレイ伯爵の愛人で当時最大のスキャンダルを巻き起こし、Duchess-公爵夫人ーという映画にもなった)はあまりに有名ですが、その他の貴族の中にも興味深い人物が大勢います。館を訪れる時は、そこに住んだ人、縁の人のことを知った上で見学すればもっと興味が湧いてくるはずです。
そこで、先日ウェールズで訪れたポーウィス城に住んだ人に関して調べてみたところ、色々な事実が沢山わかってきました。
現在のお城で一番古い部分は1200年頃に建てられた北東の塔のあたりです。その頃の持ち主は、現在のモンゴメリーシャーやデンビシャーを含むポーウィス王国のプリンスでした。その後、彼の子孫が1代目ペンブルック伯爵の二男の息子エドワード.ハーバートに荘園と共にお城を売り渡しました。それ以来、1952年にナショナルトラストに贈与するまでの400年以上の間、ハーバート一族がポーウィス城を所有することになります。
今日は19世紀後半からのお城に関わったひとたちのことを簡単にお話ししましょう。
お城への入り口。
ポーウィス城の庭の始まりは1680年代です。一代目ポーウィス侯爵(侯爵のタイトルは1748年に後継ぎが途絶えたことで消滅。その後1代目ポーウィス侯爵の二男の一人娘が15歳の時に嫁いだエドワード.ハーバートにポーウィス伯爵のタイトルが授けられる)ウィリアム.ハーバートは当時有名な造園師であったウィリアム.ウィンドを雇い、お城の南に面した芝生のスロープやテラスを造ります。
(イギリスの王家や貴族の家系はまるで旧約聖書を読んでいるようにややこしく、頭が混乱してしまいますが、ボケ防止にもなると思いますので、しばらくお付き合いください。ただ親族同士の結婚が多く、貴族同士がどこかでつながっていることが多いので、そのつながりを見つけた時に全てがはっきり見えて来ることが多いのです。)
時を経て19世紀後半、4代目ポーウィス伯爵であったジョージ.ハーバートの妻ヴァイオレット(ダースィー.ドゥ.ネイス男爵の後継者)は「イングランドとウェールズの中で最も美しいガーデン」と言われる庭を作りました。
16、17世紀に人気を博したイタリアン.ガーデンのフォーマルなデザインも18世紀に入るころから自然を重要視する風景ガーデンに変わります。ヴァイオレットは、イタリアガーデンと風景ガーデンをうまい具合に共存させて、色々なスタイルが楽しめるガーデンに仕上げました。
さて、この4代目伯爵夫妻には男子ふたりと女子ひとりの子どもがいましたが、長男でポーウィス伯爵のタイトルの後継者でもあったクライヴ子爵は第一次世界大戦で亡くなります。その後1929年に伯爵夫人ヴァイオレットが自動車事故で亡くなり、残った次男マーヴィン.ハーバートも(兄の死後、クライヴ子爵のタイトルを受け継ぐ)第二次世界大戦で戦死します。
16、17世紀に人気を博したイタリアン.ガーデンのフォーマルなデザインも18世紀に入るころから自然を重要視する風景ガーデンに変わります。ヴァイオレットは、イタリアガーデンと風景ガーデンをうまい具合に共存させて、色々なスタイルが楽しめるガーデンに仕上げました。
さて、この4代目伯爵夫妻には男子ふたりと女子ひとりの子どもがいましたが、長男でポーウィス伯爵のタイトルの後継者でもあったクライヴ子爵は第一次世界大戦で亡くなります。その後1929年に伯爵夫人ヴァイオレットが自動車事故で亡くなり、残った次男マーヴィン.ハーバートも(兄の死後、クライヴ子爵のタイトルを受け継ぐ)第二次世界大戦で戦死します。
2人の後継ぎと妻に先立たれた4代目伯爵は1952年に90歳で亡くなりますが、遺言でポーウィス城はナショナルトラストに贈与され、現在でもナショナルトラストが管理しています。
ポーウィス伯爵の称号は彼のいとこであるE.R.H.ハーバートに受け継がれます。
ここで、ポーウィス城から少し離れ、4代目伯爵の二男の話に移ります。先ほどお話ししましたように、マーヴィン.ハーバートは戦時中は空軍に属していて、1943年に38歳の若さで戦死します。彼の一人娘のダヴィーナは、祖母から父に渡った男爵の称号を4歳で受け継ぎ18代目ダースィー.ドゥ.ネイス男爵となります。
(実際は女性ですのでBaronではなく、Baroness Darcy de Knaythというタイトル。)
ダヴィーナは1960年、出版業者であったルーパート.イングラムズと結婚、3人の子に恵まれましたが、4年後に夫妻でダンスの帰り道に車が木に激突し、夫は即死、ダヴィーナも首から下が動かなくなるという重傷を負います。その彼女が治療を受けていた病院が、パラリンピックの基を築いたストーク.マンデヴィル病院でした。次第に上半身の動きが少しずつ回復しますが、生涯車いすの生活が続きます。
強い意志を持ったダヴィーナは卓球と弓道に打ち込み、ついにはパラリンピックに出場。1968年のイスラエル.パラリンピックでは水泳で金メダルを、4年後の西ドイツ.パラリンピックでは卓球で銅メダルを獲得します。
それ以後も2008年に亡くなるまで、ダヴィーナは貴族院議員として身体障害者の権利などを主張し、大英帝国勲章(DBE Dame Commander of the Most Excellent Order of the British Empire)を授かります。
人は貴族でなくてもそれぞれの人生のストーリがあります。でもそれがずっと記録に残るのはごく少数のひとたちです。館だけではなく、普通の家にもそこに住んだ人の話があってこそ建物が生きてきます。
4,5年前に車椅子のお客様とここを訪れました。その庭を車椅子を押しながら歩いた時、もしダヴィーナのことを知っていたら.....と思いながらポーウィス城縁の人たちのリサーチはこの辺で一旦休憩です。