12/28/2019

クリスマスが終わり・・・

クリスマスが終わりイギリスではセールの時期。バーゲンを求めてショッピング街に走る人もいます。昔は、クリスマスが終わった時が一番大きなバーゲンが行われていました。ハロッズデパートの前に何日も前から泊まり込んでいる人がテレビに映し出されたのはずいぶん昔のこと。今のイギリスは年中セールをしていますので、「クリスマスバーゲン」という言葉さえあまり聞かれなくなりました。それでも一応バーゲンはバーゲン。バーゲン好きの人は今も昔も同じです。

ミルトンキーンズのショッピングモール















さて我が家のクリスマスは、数時間ですが家族全員が集まりヴィーガンクリスマスディナーを楽しみました。

デザート以外は当日に料理しなければいけないので、当日は大忙し。アスパラのベイコン巻き、ウェリントン、ローストポテト、ヨークシャープディングは同時進行ですから更に大変。

デザートだけは前もって作っておきました。ミンスパイ、梨のワイン蒸し、ユール・ログです。

ユール・ログとは、クリスマス時期に暖炉で燃やす特別な木のことですが、近年はチョコレートのスイスロールを丸太(ユール・ログ)のように巻いてチョコレートトッピングで仕上げるお菓子を意味することが多くなりました。

ユール・ログ



またこの時期は各家庭でクリスマスディスプレイをしますが、外にある木や家の外壁に小さな電球を沢山飾っているところもあるので散歩していても楽しい気分になります。

中にはこんなディスプレイも。我が家もそうですが、1900年代後半に建てられた家には煙突がありません。サンタクロースはどこから入るのでしょう?と思っていると・・・

泥棒に間違えられそうなサンタ。



町の中心にあるマーケット広場では子供たちがクリスマス・キャロルを歌っていました。




普通の家庭は、クリスマスが終わるとひと段落。でも私にはおせち料理が待っています。最近、日本でもヴィーガン料理が少しづつ注目されているようで、パソコンで「ヴィーガンおせち料理レシピ」と検索すれば沢山ヒットします。これまでは40年間以上も参考にしていた「オレンジページ」という雑誌の特別号はセミリタイヤ―。今年から日本のサイトも利用しています。

我が家は今年はお正月を31日にすることにしました。こんなことは初めて。31日に「明けましておめでとう」では気分が乗らないかも?でも2日から仕事の息子が元旦にロンドンに帰らなければいけません。せめて元旦はゆっくりさせてあげたいと思い、31日に新年のお祝いをすることになったというわけです。考えてみれば日本とイギリスの時差は9時間。31日の15時には日本ではすでに2020年です。そう考えれば31日に「おめでとう」でもOKという気になってきました。

12/24/2019

メリークリスマス!

クリスマスイブです。

22日、23日とクリスマスの食事の買い出し、23、24日は25日のクリスマスディナーの下準備です。今、ユール・ロッグ用のスポンジケーキがオブンに入っています。

今年は、最後の最後まで完全にメニューが決まらず、つい先ほども変更したばかりです。いつも思うことは、もっと時間をかけてメニューの選択をしなければいけないということ。それも夏が終わったらすぐに始めたいところです。毎年、それもここ10年間以上同じことを考えています。

以前はターキーかアヒルをローストすればよかったので、考える必要もありませんでした。でも、ヴィーガンのクリスマスディナーのレシピは無限にあって、迷ってばかりいます。

クリスマスツリーの飾りつけだけは数日前に終わりました。
(やっと間に合ったという感じ)




飾るものは子供たちが小さかった時にホリデー中に買ったものや、作ったもの、いただいたものが年々増えてきています。クリスマスツリーは「思い出ツリー」です。










プレゼントは、新聞紙を使うのが我が家の決まりです。




皆さんも楽しいクリスマスをお過ごしください。
メリークリスマス !!!!





12/11/2019

総選挙の前日

クリスマスまでの時間は、速いスピードで過ぎていきます。録画しているラグビーの試合も早送りしながら観ているほどです。

明日は総選挙の日。大騒ぎです。ブレグジットのことで家族の意見が分かれて険悪な雰囲気に包まれている人もいます。アメリカの大統領選挙の時に、トランプ派か否かで婚約を解消した人もいると聞きました。

今回はそれぞれの党内でブレグジット派かどうか、合意無き離脱を支持するかどうかなどで意見が分かれていますし、一般人のみならず政治家の中にも党を変える人もいて、保守党、労働党の戦いよりブレグジットが焦点です。

我が家の近くのパブで機械に貼り付けられた紙、紙、紙。何の機械かわからないくらいに沢山の張り紙。




真ん中に書かれていることは・・・・




「故障中。この機械(フランス製)は少なくとも一週間は修理できないと言われました。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。11月1日は新しい時代の始まりとなりますように。フィリップ。」

フィリップはこのパブのオーナーなのですが、ブレグジット派としてこの町では知られています。

この張り紙を見たのは12月に入ってから。つまり1か月以上も機械は修理されていません。




彼にとってはボリス・ジョンソンはヒーローなのでしょうけど、私には危なっかしくて見ていられない人物です。イギリスの人口は世界人口の1000分の1以下。これから自国のみならず世界的に解決しなけてはならない問題が多い時代です。環境問題はその筆頭に挙げられますが、各国がバラバラに解決しようとすることは無理です。人間もそうですけど、国に関しても自分の国だけ良ければ・・・の時代ではありません。

そんな私は明日からしばらくロンドンで暮らします。日本国籍である私には選挙権はありません。ロンドンで選挙の結果を待つのみです。




12/09/2019

ジョージ・スタッブズ展

「ジョージ・スタッブズ展」を観るために、我が家から一番近い都会のミルトンキーンズにあるギャラリーに行ってきました。特に馬の絵で有名な画家ですが、国立美術館に行かれた方は彼の代表作である「ウィッスルジャケット」の巨大な絵を覚えていらっしゃるかもしれません。




ジョージ・スタッブズは1724年にリヴァプールで生まれた画家ですが、解剖学に興味を持ち、「馬の解剖術」の本を出版します。絵は独学で学んだようですが、当時活躍していたゲインズボローや、レイノルズに影響を受けながら特に動物の絵画を習得していきます。





これほどまでに動物を写実的に描いた画家も少なく、それも解剖学に取り組んだ成果でしょう。正に動物の肖像画家といった感じです。








陶器で有名なジョサイア・ウェッジウッドとその家族の絵。




インドの総督であったピゴット卿が、インドより持ち帰ったチータに牡鹿を襲うよう仕向けている従者。実際は牡鹿の角で攻撃されたチータは攻撃をあきらめたようです。





現在のサラブレッドの95%が血統を受け継いでいると言われるエクリプス。





エクリプスとは日食を意味し、この馬が1764年の4月1日の日食に生まれたことに由来するとか。負けたことがなく、ついには他の馬のオーナーがエクリプスとレースをするのを拒んだために引退したそうですが、その後は種馬として活躍したそうです。

亡くなった後、エクリプスの体は解剖されました。この時に関わった人たちがロンドンに獣医大学を作るのですが、これが有名な現在の王立獣医大学(Royal Veterinary College)の前身です。

エクリプスのスケルトン。




皇太子が(後のジョージ4世)特に好んだ馬2頭。




手前の馬が、なんとなく宙に浮いた感じで変な絵だなーと思っていたら、乗馬好きの友人が「当時は写真がまだ発明されていなくて、走っている馬の瞬間をとらえるのが難しかった。」と説明してくれました。なるほどー。まるで木馬のようです。

    やはり皇太子時代のジョージ4世の馬。馬のお尻に皇太子の象徴が見えます。









こんなに素晴らしい絵画展が、ロンドンではなくミルトンキーンズに来たというのが不思議ではありますが、とてもうれしいことです。友人はわざわざスコットランドに近いイギリス北部から前売り券を予約してきたくらいですから、大変な熱の入りようでした。

12/08/2019

羊の仲間

毎日ルビーとジャスパーを連れていく野原は個人の所有で、羊農家に貸しています。ですから年に数回は草を食べるために2、3週間羊が放し飼いにされています。隣り合わせになっている3つの野原のうち2つは完全に囲いがしてあるので羊がいないときは、私たちのように犬を遊ばせる場所として多くの人が使っています。つまり羊農家の人の好意で使わせていただいるということです。










その野原にはまたブラックベリーやクラブアップル(姫リンゴ)、スロウの灌木、木があるので私にとっても ‛遊び場’になっています。




クラブアップル・ジェリーを作ります。




さて、羊は中世からイギリスの経済を支えてきました。イギリス産の羊毛は質が良く国内でも、そしてヨーロッパ各地にも輸出されていました。羊毛で財を成した人は数えきれず、その富を使って建てられた教会 ‛ウールチャーチ’ はコッツウォルズやサフォークなどに今でも多く見られます。

羊毛は、外国から安い毛が入り出して徐々に産業としても消えていくのですが、その代わりに肉用として羊が飼育されるようになりました。現在でもイギリスの田園風景の一部になっている羊はほとんどが肉用です。

今年もクラブアップルが生る時期、羊がやってきました。羊はオドオドしていて、あまり賢くなく、草を食べることだけに専念している動物とみなされていますが、羊たちを見ていると実はそうではなく、好奇心旺盛でフレンドリーな動物であることがわかります。

クラブアップルを採っていると、沢山の羊が一斉に近寄ってきます。襲われることはなく、数メートルのところから近寄ってきません。みんなの目が私に向いています。まるで「何しているの?」と言わんばかりに。




しばらく羊と私の沈黙の会話が続きます。それだけでなんとなく心が通じている感じになります。こちらが動かなければ、羊たちも一向に動こうとしません。




会話をしているうちに、私も羊の仲間に入れてもらえたような気持ちになります。でも私の気持ちの中で影をおとしているのは、「この子たちもいずれは殺されてしまう。」という悲しさです。

何年か前にお客様とウォーキングをしているうちに母親から離れてしまった子羊がメーメー泣いているのに出会いました。母親も泣いています。母子の間には柵があって、子羊は柵のどこかに開いている小さな穴から出てしまったのでしょう。

さあ、それからお客様と一緒に、柵が切れたところまで子羊を誘導するのに一生懸命です。牧羊犬がいたらすんなり事がおさまったでしょうに。結局しばらくして誘導に成功。母子は再会できたのでした。今年もまた、一匹だけ隣の野原に入ってしまった羊を、今度は私ひとりで仲間のところに戻してあげました。

昨年と今年は違う羊です。昨年の会話をした羊はどうしたのか?と思うと更に胸が痛みます。

昨年の羊。




クラブアップルのジェリーはおいしくできましたが、食べるたびにその年の羊のことを思い出します。





12/07/2019

ジェイン・オースティンの家



イギリスの文学を代表する作家のひとり、ジェイン・オースティンが晩年を過ごした家はその短い生涯のなかで仮住まいを繰り返すジェインにとっては正に理想の家でした。

そういうことが頭にあったからかもしれません。初めて訪れた時から私はこの家に特別な愛情をを抱いていました。








ジェインは1775年、スティーヴントンの聖ニコラス教会牧師であったジョージ・オースティンとその妻カッサンドラの二女として牧師館で生まれます。暮らしは決して豊かではなく、父は牧師としての給料の他家庭教師をして家計を支えていましたが、ジェインの7人の兄弟は仲良く、幸せに暮らしていたようです。(次男のジョージに関しては精神に障害を持っていた、言語障害であったなど言われていますが彼に関しての記録は残っていません)牧師館はすでに19世紀の初めに取り壊されてしまいましたが、父が牧師をし、彼の退職後兄が牧師として受け継ぎ、またジェインが通っていた聖ニコラス教会は今でも残っています。







小さな村の小さな道を進むと、数件の民家があるだけの場所にその教会があります。




ジェインの記念碑。




スティーヴントンで暮らしている時に、彼女は生涯でただ一度の恋をします。その恋は実らずに終わりましたが、そのつらい経験をしたのもスティーヴントン時代でした。(その後に裕福な男性からのプロポーズを受け一旦は受けたもの気が変わり、翌日には婚約破棄をしています。当時の女性は将来経済的に豊かな相手を選ぶことが優先だったことは彼女の作品から理解できます。でもジェイン自身が真の幸せを考えてプロポーズを断ったことで彼女の信念、芯の強さに魅力を感じます。)

スティーヴントンでの暮らしはジェインにとっては幸せな一時期でした。「分別と多感」「ノーサンガー・アビー」を書き始めたのもこの頃です。

1801年に父が退職、一家はバースに移り住みますが田舎でののんびりした暮らしが彼女には合っていたようで、都会バースでの生活は決して幸せではなかったようです。父の死後、一家はサウスハンプトン、ロンドンで生活しますが、彼女に幸運が訪れたのは1809年のことです。兄エドワードが母とジェイン・カッサンドラ姉妹に(姉の名も母と同じカッサンドラ)永久の住まいになるチョートンの家を提供します。兄は裕福な親せきの養子になっていたので、大きな館や広大な土地を持っていました。チヨウトンの家もその一部として受け継いだものです。

この家が現在のジェイン・オースティンハウス&博物館です。






庭のあるこの家での暮らしは、作家としてのジェイン・オースティンを更に磨いたといえるでしょう。

ダイニングルーム。




ダイニングルームに置かれ、朝食後にジェインが執筆をしたテーブル。










ジェインのベッドルーム。




チヨウトンに引っ越した時にジェインが購入したものと同じタイプのピアノ。




ジェインは1816年初めごろから体調を崩します。1817年5月には病状が悪化し、姉のカッサンドラと共に主治医のいるウィンチェスターに移り住みます。(病名は現在ではアディソン病という名がついています。二人が暮らした家は残っていますが一般公開はされていません。))その2か月後、ジェインは帰らぬ人となり、ウィンチェスター大聖堂に埋葬されました。

ジェイン・オースティンの髪の毛。




41歳の若さで亡くなったジェイン・オースティンですが、イギリスの文学に多大な影響を与えました。

因みにこの家の向いにはカッサンドラという名のティーショップがあります。













ここからジェイン・オースティンが暮らした家を眺めながらお茶を飲む時、気持ちは完全に200年前の世界です。